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日々の生活に落っこちているもの
僕の在学中における最後のお仕事が昨日、終了した。
大学内のとある教室の家具デザイン。
伊東啓太郎先生が教室の内装のトータルプロデューサー。
学生の僕らに、家具のデザインという楽しい課題あるいはお仕事を任せてくれた。
学生がデザインに携わったのは、本棚と靴箱。
僕は本棚をメインに頭を使った。
自分の頭の中に存在していたアイデアが目の前に現れるというのは、とても気分が良いもので。
近いうちに自宅の家具をつくりたいと考えている。
もちろん仕事として任務を遂行するのも「ものづくり」。
深さと温かさをが見え隠れするようなものをつくり続けたいと。
今もそうだけれど、今より僕が幼い頃によく感じていた。
例えば、映画館やカーテンの閉め切った小学校の体育館から急に外に出たとき。
電気を消して天井や家の中を見回すとき。
暗い場所から明るい場所へ自分自身の身を動かすとき、明るい場所から暗い場所に自分自身を持っていくとき、はじめの、う~ん5~30秒くらいはその急速な光量の変化に僕の目はうろたえてしまう。
でも徐々にその環境の変化に僕は、僕の目は慣れてしまう。
眩し過ぎて見えなかったものが徐々にその姿をあらわし、鮮やかなあるいはほのかな色を僕は感じることになる。そしてその眩しくて、あるいは暗すぎて見えなかったものを僕は当たり前のものとして認識するようになる。眩しすぎるもの、暗すぎるものを僕は徐々に日常化してしまうのだ。好むと好まざるとに関わらず。
僕がこれからどうやって歩いていこうかと考えたときに、常に現状より明るい場所、その時に自分が考えた楽しそうなことがある方角に向かっていくしかないかと。あらゆる物事に慣れてしまうことを前提として、常に現状より少しだけでも明るく楽しそうな静かな場所へ。
先日、修士論文の発表が終了した。とりあえずの帰結というやつです、ええ。
そういえば誰かが書いた本の中で、「とりあえずの帰結という以外にものごとに終わりはあるのだろうか?」という文章があったけ。
とはいっても僕の中で割と大仕事だったので、発表が終わって少しほっとしております。
しかしながら僕はこの危なっかしい両手でまだ少しのプロジェクトを抱えています。
昔、僕が小学校の6年生の時の担任の先生が教壇の上で言った言葉、「どうせやるなら、本気でやれ!」。はい。やりますとも。僕が選んだわけだし。
僕ら(少なくとも僕は)何かをどういう形にせよ表現せずにはいられない。万人全てに理解されることはないということを頭のどこかで理解しつつ、誰かに認めてもらおうとせずにはいられないんじゃないかと。